【箱根駅伝の歴史】箱根駅伝を生んだ金栗四三さんを解説!

こんにちは、みかづきです^^

今回は「金栗四三さん」について解説します。

消えた”オリンピック走者”として話題を呼んだ選手ですが、今では「マラソンの父」「箱根駅伝の生みの親」と語り継がれています。

この愛称だけでも、彼の偉大さが十分に伝わってきますね!

この記事では、著書「金栗四三(著:佐山和夫)」を参考にさせて頂きました。

それでは、10年以上ランニングを続けている筆者が、金栗四三さんについて解説します。

目次

金栗四三の経歴

  • 生年月日:1891年8月20日
  • 出身:熊本県
  • 小学校へは往復12kmを走って通学し、成績も優秀。
  • 東京高等師範学校(現・筑波大学)へ入学。
  • 1912年ストックホルム・オリンピック マラソン代表として走るも途中棄権。
  • オリンピックからの経験を活かし、箱根駅伝などの駅伝大会を開催。

「かなくりしそう」や「かなぐりしぞう」など、いくつか読み方があるそうです。

少し詳しく解説します!

小学校へは往復12kmを走る

山に囲まれた、自然豊かな場所で生まれました。

生まれた村に小学校がないため、家から片道6km離れた学校まで地元の人と走って通っていたとされています。

小学生のときに毎日往復で12kmも走っていたので、この経験が少なからず将来オリンピック選手を生む素質に貢献したと思います。

しかし、始めは身体が弱く、みんなについて行くので精一杯だったそうです。

そこで金栗四三さんは、呼吸にリズムをつけて2回ずつに分けると楽になることに気づきました。

それをきっかけとして、走ることが好きになったそうです。

この2回吸って2回吐く呼吸法は、今の中高生の体育の教科書にある「持久走の呼吸法」として記載されています。

もしかすると、金栗四三さんが陸上競技を普及したときに、自身の呼吸法を記載したのかもしれませんね。

日本人初のオリンピックへ

オリンピックの予選会であった、羽田競技場で開催された25マイルマラソンに出場。

25マイルは約40kmのため、ほぼ今のマラソンと同じ距離になっています。

そのときは少し迷って、思い切ってマラソンに出場されたそうです^^

その予選会に向けて練習メニューを試行錯誤し、念願の優勝を掴みました!

オリンピックでの経験

第4回ストックホルム・オリンピックマラソンに出場しましたが、途中棄権でレースを終えています。

しかし、その結果が金栗四三さんの活躍のきっかけをつくりました。

そこでは、海外選手のスピードの速さや走りに圧倒されたと記載されています。

ストックホルム・オリンピックに出場したからこそ、日本がもっと陸上競技に力を注がなければいけないと気づくきっかけになりました。

そこから金栗四三さんらによって、後に日本初となる東海道五十三次駅伝競走などが開催されていきます

彼自身も駅伝を走り、自身の競技力を向上しつつ、日本の陸上界の引き上げに全力を注がれています。

ストックホルム・オリンピック後、日本にさまざまなスポーツ協会が誕生していったからです。

  • 1915年 野球連盟(中等学校)
  • 1920年 アマチュアの漕艇協会
  • 1921年 フットボール協会
  • 1922年 日本馬術連盟
  • 1922年 ローンテニス協会
  • 1923年 日本ホッケー協会
  • 1924年 日本アマチュア水泳協会
  • 1924年 日本ゴルフ協会

数年の内にこれだけの協会や連盟が誕生したので、日本のスポーツ界に大きな発展をもたらしたと言えます。

金栗四三さんは、箱根駅伝をつくっただけでなく、日本のスポーツ文化を強化した人でもありますね。

駅伝・マラソン大会を企画

1920年の第7回アントワープ・オリンピックに向け、トレーニング一環と日本の長距離強化に向けて駅伝が誕生していきます。

STEP
東海道五十三次駅伝競走

日本初の駅伝である「東海道五十三次駅伝競走」を企画し、自身もアンカーとして出走。

金栗四三さんを見ようと多くの方が集まり、走るのが困難になるほどの人が集まったそうです。

STEP
富士登山マラソン競走

第1回大会で終わった富士登山マラソン競走を復活させ、自身の門下生を全員を走らせたそうです。

金栗四三さんは審判をし、関東の学生がたくさん走りました。

日本の学生の走力向上を、目的としていたことが分かりますね。

STEP
下関―東京間1200kmを20日で制覇

富士登山マラソン競走で優勝した自身の門下生の「秋葉祐之」と組み、1200kmを完走。

最後の日光―東京間の130kmは、学生たちにチームを組ませて駅伝形式で勝負をしています。

より多くの人に、走ることの楽しさを伝えたかったのでしょう!

STEP
箱根駅伝を企画

元々はアメリカ大陸横断の予選会とされましたが、横断は中止に。

関東の4大学(早稲田大・慶応大・明治大・東京高師)が参加し、授業があることを考慮して午後からスタート。

STEP
七大学駅伝競争

マラソンや長距離の練習で負傷者や死者が出る中、「正しく走る」ことを伝えるために開催されました。

講演会も開かれ、金栗四三さん正しい準備すること・正しく走ることを伝えます。

STEP
「オリンピック・マラソンに優勝する会」を創設

日本陸連が国際陸連から受けていた除名処分が、1950年に解かれたを記念して会を創設。

企業や学校と連携して、強化合宿を開催しました。

STEP
監督や大会の主催者なども

学校の講師など、たくさん人に走りを教える活動をされてきました。

戦後は1953年のボストンマラソンに出場した山田敬蔵の監督をしており、見事優勝に導きました。

オリンピックに出場して以来、日本の長距離界発展に大きく貢献していることが分かると思います。

誰よりも長距離を愛し、世界と戦える選手を育成したかったのだと思いますね!

ストックホルムからの招待

1967年にストックホルム五輪の55周年記念行事に、金栗四三さんが招待されました。

そして、ストックホルムの競技場でゴールテープに向かって走り、ゴールテープを切るというサプライズに!

その時のアナウンスがこちら↓

「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。

これをもちまして、第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了いたします。」

こうして、金栗四三さんはストックホルムでのオリンピックを終えました。

有名な上記のセリフは、ただマラソンでゴールしたことを称えたのではく、オリンピックからの日本での活躍が認められたのだと思います。

実際に42km走ったかどうかではなく、彼の走り抜けた人生に栄誉が送られたのですね!

まとめ

  • 小学生から走りが得意になり、オリンピック代表選手までに上り詰めた。
  • ストックホルムのオリンピックで得た経験から、日本の長距離界の育成と強化に力を入れた。
  • そして、駅伝やマラソン大会を開催、走り方などの講演までも行った。

オリンピックに金栗四三さんが出場したことにより、日本にスポーツの文化が芽生えたとも考えることができます。

そんな金栗四三さんに感謝をしつつ、みなさんと一緒に箱根駅伝を次の時代へ繋げていきたいです!!!

おわりです^^

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

このブログを運営している人

ランニングが身体の一部になっている「みかづき(筆者)」です。

市民ランナーとして普段は走っており、記事の中で出てくる「筆者」として記事を制作しています。このメディアを通して、少しでもランニングに関する悩みを解決したいと思っております。

目次